継体大王

■潜流の時から百済との親交を温めるなど国際化に積極的であった。()

■百済支援により大陸文化の取り込みに成功した。

■五経博士の渡来

■統治文化の取り込み

■秦氏など渡来人を重用し文化を取り込み

■九州の豪族が引き起こした筑紫の君磐井の乱鎮圧


彦主人王(継体大王の父)と振姫(母)の結婚

以下は越の国ルネッサンス実行委員会によるご即位1500年記念誌,並びに継体大王即位1500周年記念事業公式記録冊子より抜粋しています。詳しくはサイドバー をクリックしてご覧ください。

継体大王の父、彦主人王は近江の国高島郡の人で当時、越の国に住んでいた美人と評判の振姫を迎え妃とします。


主人、彦主人王

彦主人王の死により三人の子供を抱えた振姫は、親しい親族の居る古里で子供を育したいとふるさと三国(丸岡高向)へ帰ります。

 

写真 : 彦主人王陵墓滋賀県

高島の地元では「田中王塚」と呼び、被葬者は継体天皇の父、彦主人王と伝えられ

現在は宮内庁の陵墓参考地とされています。


振姫終焉の地

 振姫は福井県坂井市春江町姫王、この地の「童子之城」に住み、そこで亡くなったという。

 

 その屋敷にあった穴があいた大石を「馬つなぎ石」とし、現在、碑が建てられ守られています。

 

資料:春日神社  場所  福井県坂井市春江町姫王



継体大王の即位     507年

継体元年2月4日(507年3月5日)宮の造成が進む河内(大阪府枚方市)の地。朝の柔らかな日差しが輝く早春、58歳の大王が群臣の前に堂々とした姿を現した。恭しくひざまずき神器を捧げる重臣の大伴金村。激動の5~6世紀、越の国から中央に駆け上がった、継体天皇誕生の瞬間だった。

 

写真:福井新聞 平成19年1月18日記事より写真・記事拝借

第25代武烈天皇は在位8年で亡くなり、後継ぎがなく越の大迹の王が抜擢されたのでしょう。大迹の王は父かたの系譜で応神天皇五世の孫に当たり、母方の系譜によると垂仁天皇八世の孫にあたります。大迹の王57歳。樟葉の宮で即位し、武烈天皇の姉、手白香皇女を皇后とした。

 

継体大王とお妃

お妃の出自の分布からみると大迹の王の権力範囲が伺えます。地方の豪族に支えられながら男大迹の王は26代継体天皇として即位した。つまり、越の国を治めた三尾一族のみならず、大和以東の豪族たちに支持されながら天皇になられた人と考えた方が妥当である。                                                    

1.〈目子媛〉  

    尾張連草香の娘

        27代  安閑、 

        28代  宣化天皇の母

2.〈稚子媛〉〈倭媛〉     

    三尾から2人の妃

3.妃の出身地 

    福井県  2人

    滋賀県  2人

    愛知県・岐阜県 1人

    大阪   1人

   

       

 


即位後の継体大王

  継体大王は樟葉の宮で即位し、そのご、なかなか大和へ入りません。511年山城の筒城の宮、518年山城の弟国の宮、即位後20年後の526年にやっと磐余玉穂の宮に遷都し、やっと大和にはいります。

  なぜかそれまで継体天皇のみが大和に宮を置いていません。

当時は大和は百済寄りの体制をとっていましたが、地方の豪族は目に余る百済寄りの姿勢に反発していたからかもしれません。

それでも大王は百済を支援することが最良の選択と考え大和政権の意志を貫きます

それは継体天皇には目子媛の間に生まれた勾大兄の皇子(安閑天皇)と日隈高田の皇子(宣化天皇)があり、即位時にすでに40歳代の血気盛んな年になっており、継体天皇を両王子が強力に支えていたことも大きな要因ではないでしょうか。

磐井の乱

  527年(継体21年)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

 

  磐井は挙兵し、火の国(肥前国肥後国)と豊の国(豊前国豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇大伴金村物部麁鹿火許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

 

  528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。

同年12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

継体天皇崩御

531年継体天皇崩御。82歳。即日第27代安閑天皇即位。

陵墓を宮内庁は吹田市の太田茶臼山古墳にしていますが、現在の知見では高槻市の今城塚古墳であると考えられています。

今城塚古墳は近年継続的に調査され新しい成果が発表されています。

今城塚古墳 真の継体天皇の墳墓と言われている

今城塚古墳は6世紀前半に築かれた、二重の堀を備える淀川流域最大の前方後円墳です。学術的には継体大王の真の墳墓と言われています。

 

出土した埴輪レプリカ


継体天皇と粟田部

継体天皇潜流地

粟田部の岡太神社境内にある潜流の地碑

当地には継体天皇即位を原点とする様々な文化が残され、継承されている。

■薄墨桜

■岡太神社・王子が池

■蓬莱祀・迹王の餅

 

皇子が池‐大王ゆかりの遺跡

写真:福井新聞の切り抜き


大王の系譜